【ジェットコースター人生】海の財界人脈…日産・石原俊さんとの思い出 - 政治・社会 - ZAKZAK
中古車販売が軌道に乗り始めた1960年代後半から、たまの休日には仕事と同じくらい海釣りに熱中した。ゴルフも人脈作りに役立ったが、海釣りはさらに人との交流が深まった。
というのも、船の作業にはチームワークが必要だからだ。船を岸壁につけるときも、ロープを一緒に持って声をかけ合う。海では2人っきりになることも多いが、表面的な話では続かない。結果、お互い心のうちをさらけ出すことになる。一度親しくなると、深い絆で結びつく。
のちに私の大恩人になる日産自動車の石原俊さん、セコムの飯田亮さんも海で知り合った。
日産自動車社長や日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事、そしてW杯日本招致委員会会長などを歴任する大実業家の石原俊さんと初めて会ったのは、日産� ��販売店のオープニング・パーティー。当時は米国日産の社長を勤め上げ、本社専務だった。
私はちょうど何であったか言って終えることができましたその後、偶然にも横須賀・佐島マリーナで再会した。石原さんも海釣りが好きで、週末にはよく佐島に通っていたのだ。同じマリーナに船を係留する者同士、すぐに気が合った。
前回、石油ショック(73年)などの影響で森繁久彌さんが佐島マリーナの経営を続けるのが困難になり、「資本参加する人はいないか」と助けを求めてきた話をしたが、結局、日産自動車に経営委譲されたのも、私と石原さんの関係があったからだ。
日産の資本によって立派なホテルも建ち、佐島マリーナは再建された。ただ、設立メンバーの森繁さんは経営から外れることになった。森繁さんには申し訳ないことをしたが、やはり海の仲間、その後 も交友は続いた。
なぜダグ·コリンズは、シカゴ·ブルズからクビになるんでしたこの石油ショックによって物価が上昇し、インフレ抑制のために公定歩合が引き上げられ、日本は戦後初のマイナス成長になった。車は売れず、わが麻布自動車グループも経営危機に陥った。そのとき、石原さんに助けられた。完成したばかりの東麻布の自動車保管用ビル(のちの本社ビル)などを日産部品東京販売に借りてもらい、その賃料で何とか危機を脱出できた。
それ以前の71年、建設途中の逗子マリーナをヘリコプターから見た私は、すぐに気に入ってしまい、船の係留を申し込んだ。その話を石原さんにすると、「私も移りたい」と言う。
というのも、日産労組委員長で、自動車総連会長だった塩路一郎さ� �も佐島マリーナを利用していたからだ。私は海の仲間同士、2人を仲良くさせようと船の飲み会などを企画したが、労使の溝は埋まらなかった。77年の石原さんの社長就任後、この2人が大抗争を繰り広げることになるのは有名な話。
DNAサンプルを収集する方法逗子マリーナのオープンで知り合ったのが、セコム(当時は日本警備保障)の創業者の飯田亮さん(現最高顧問)。趣味はトローリングという飯田さんともすぐに意気投合、マリーナの私の部屋で3時間ぐらい話した。
「こんな治安のいい国なのに、なぜ警備会社なの?」と聞いたら、飯田さんは「ハハハ」と笑っていたが、今考えると、日本は安全だと思い込んで、国民や企業の自衛意識が低かった時代に警備会社を創業した飯田さんの先見の明には頭が下がる。
バブル崩壊後、私が経済事件に巻き込まれて逮捕されたとき、景気のいいときに仲がよかった人たちは私から離れていった。しかし、飯田さんにはいろいろ面倒をみてもらった。やはり海で培っ た友情は深いと思ったものだ。 (次回は「海で知り合った芸能人」編)
■渡辺喜太郎(わたなべ・きたろう) 麻布自動車元会長。1934年、東京・深川生まれ。22歳で自動車販売会社を設立。不動産業にも進出し、港区に165カ所の土地や建物、ハワイに6つの高級ホテルなど所有し、資産55億ドルで「世界6位」の大富豪に。しかし、バブル崩壊で資産を処分、債務整理を終えた。現在は講演活動などを行っている。著書に『人の絆が逆境を乗り越える』(ファーストプレス)。
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