金沢聖書バプテスト教会 » 551〜600
御言葉メール600
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御言葉メール600
2011年9月24日
「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13の34)
神を愛し喜んでいる時、人を憎み嫉む事はできません。人を好きになったり感謝したり、物で満足したりすることはありますが、その時には憎しみや妬みが無くなるかというと、そうではありません。何を愛するかによって違うのです。
神が自分を赦して下さった事を本当に感謝し喜ぶ時にのみ、憎しみ妬みから解放される。そこに生まれるものは愛です。私は自分の内側から、自然発生的に上記の愛がでない事を知っています。「互いに愛し合いなさい」とイエス様が言われる時、「私にはできません」と告白せざるを得ません。そして「イエス様が私に成して下さった赦しの業を思い出させてくださり、イエス様に感謝することが出来るようにしてください」と、祈らされる。
イエス様の成された赦しに感謝する時、私は自分と人を受け入れていることを知らされます。神の愛は、憎しみ、嫉み、敵意、不品行、偶像礼拝などとは全く無関係のもの。それは人の心です。神の愛は赦し尽くす、驚くべき恵みです。
御言葉メール599
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2011年9月17日
「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」(ヨハネ12の3)
当時、香油はとても高価な物で、乱費したり無駄遣いをする事は貧困につながり、香油を用意しておくことは賢い者のしるしでした。三百グラムはおおよそ一年分の給料です。
それをマリヤは惜しげもなくイエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐった。少し前、兄弟ラザロを死から復活させて下さったイエス様に、マリアは何とか感謝を表したくて仕方がなかったのです。それを見ていたユダは、その香油を売って貧しい人に施した方がいい、と言いますが、ユダの動機は貧しい人にあったのではありません。ただ、それを見ていた人達の思いを代弁していたと言えます。
勿体ない、他にも使いみちがある、と。けれどもマリヤの思いは周りからどの様に見られようとキリストだけに向けられていた。その思いを、イエス様は喜ばれた。私達の思い、言葉、行動の動機はどこにあるでしょうか。キリストへの感謝のない価値観から出ているなら、その事を主に告げれます様に。主は喜んで助けを与えてくださいます。
御言葉メール598
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2011年9月10日
"誰が、星とペアを組んでから投票してしまっ"
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10の28)
私達の日常には近親者の葬儀やペットの死もあります。死は私達の身近に存在し、自分の将来を考えたり不安にさせたりします。
しかし死後の裁きは、聖書であれだけはっきり語られていながら、私達の日常を脅かす事はあまりありません。死を恐ろしいと思うのは、未知の世界であると共に、人間の罪の結果としてもたらされたものだからです。実はこの罪に対して裁きがある。その裁きこそ、永遠に神と共にあるか、永遠の滅びかを決定するので私達が心をとめなければならないものです。
ところがこの現実の生活の中で、永遠のいのちであるキリストを信頼するならば、私達は自分の内に永遠のいのちをもつといわれる。それは永遠の滅びに裁かれる事は決してないということです。心が折れたり疲れたりどんな状態になっても、永遠のいのちであるキリストへの信仰は、主が完全に守られる。それを奪うものはこの世には誰もいません。永遠のいのちは今も死後も私達を守り導きます。
御言葉メール597
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御言葉メール597
2011年9月3日
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」(マタイ20の14)
聖書のこのたとえの箇所は、人間理性では納得できない不公平感の募るところではないでしょうか。雇い主は、朝早くから働いた人に、一日一デナリ(当時の一日分の労賃)の約束をしました。あろうことか、一時間しか働かなかった人にも一デナリの賃金を支払ったのです。
長時間労働者は雇い主に詰め寄りますが、だからといって雇い主は不当なことをしているわけではないのです。現代はアルバイトやパートなど一時間いくらで計算される。人間社会ではそれが必要です。自分の損得を中心にして考える罪を持つ人間の集団は、様々な決まり事(規則、法律、政治)によって、ある程度の秩序が保たれているからです。しかし神の法則は全く違います。賃金は恵みです。
神の恵みは、働きの多い少ないで比較する事はありません。神様が呼んで下さらなければ働く事もできなかったのです。私達はどれだけ出来るか出来ないかに心を奪われてしまいます。どうかその時、一方的に招いて下さり、あなたや私を比較しないで丸ごと見て下さる神様を思い出せます様に。
御言葉メール596
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2011年8月27日
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8の31)
どのように私は芸能人を予約しない
私達は自分の考えや感情に振り回されてしまいやすい者です。そういう私達にイエス様は、みことばに留まる様に言われる。
具体的にどういうことでしょうか。私達は正しいと思う考えをもっています。また虚しさ、落ち込み、辛さ、腹立たしさ等の感情の揺らぎがある。私達の内側からでてくる考えや感情と聖書の言葉と教えが違うと理解できた時、「神のことばと教えに立ち、神を信頼できる様に」と葛藤の中で祈らされる歩み、といえるのではないでしょうか。
たとえ不安があっても、たとえ苛立ちが収まらなくても、たとえその結果、もっと自分が苦しくなったり不利益を被る事が予想されても、です。自分の思いではなく神のみことばに従う決断は、自分の罪が赦されたという真理を経験させてくださる。それは現実生活で、様々な不自由や問題という束縛の中にありながら、人には理解できない自由が与えられている事を確認する機会になるでしょう。
御言葉メール595
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2011年8月20日
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7の38)
十代の頃、能力的に自分が劣っている事を思い知った時、将来の不安を強く覚えました。同時に自分の心の奥底に潜む他人に対する羨望、妬み、憎しみという思いは、自分はこんなひどい人間なのか、という失望と虚しさ、更に自分の内側から出てくる思いが、そういうものしか出てこない事に愕然となりました。
表面は取り繕う事ができても、自分の心の中はごまかす事ができない。そういう時に読んだ「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出る」という言葉は、それまでに読んできたどの本(聖書以外)の言葉より刺激的でした。イエスを信じるなら、枯渇した害しか与えない心から自分と人を潤す生ける水が流れ出る。本当だろうか、という疑い以上に心がワクワクしてきた事を思い出します。
生ける水というのは、キリストを信じた時に与えられる聖霊なる神様のことです。神様が嫌われる罪があるにも関わらず、その罪を赦された者の心に神が住まわれる。その方は必ずあなたを満ち足らせて下さいます。
御言葉メール594
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2011年8月13日
「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7の18)
私達は関わり合う人にイエス様の救いを伝えたいと思います。しかし神様の事を話したらどういう反応があるだろうか、という不安や今は話す時期なのか、という葛藤が出て来る場合もあるでしょう。
誰がドレイクとジョシュからミンディーを果たしています
話して、座が白けたり無視されたり、明らかにバカにされている、とわかる場合もあります。キリストは自分の創意工夫の知識でもなく、自分の栄光を求めてもいない。ただ神の栄光だけを求めているので自分は真実であり不正がないと言われた。自分の言葉は神のことばであると語るイエスを、人々は神を冒涜する者として殺そうとします。
私達が神を証しして、悔しく嫌な思いをしたにしても、イエスの救いを話す時は自分の功績や正当性を話す事はありません。バカにされない様に生きる術が賢いと考えられる世の中で、今自分が生きているのは神による、と語る言葉がどれほど愚かに思われようとそこには偽りも不正もない。それは私達の真実の言葉です。その経験はあなたや私の財産です。
御言葉メール593
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2011年8月6日
「イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」(ヨハネ6の20)
不安な時、迷っている時に、「大丈夫だよ」、「心配しないで」などと声をかけられると、納得できる根拠がたとえ明白になっていなかったとしても、ホッとする経験をもたれた方は私一人ではないと思います。その時は問題の解決というよりも、その人の心に寄り添う、という事に意味がある様に思います。
イエス様は私達に「恐れるな」と言われる。人間は皆が不安や恐怖を抱え込んでいます。人の気持ちがわかっても、他人に確かな安心を与える事は基本的にはできませんが、イエス様は違います。不安と恐怖、迷いの中にある時、そのただ中に実はイエス様が共に居てくださる。私達の罪や過ちがどの様に悲惨な結果を生み出しているかを、イエス様はよく御存じです。
罪を赦されると同時に、神が共に居てくださる人生が始まる。闇と嵐が吹きすさぶ湖上の舟で、イエス様が水の上を歩いてこられるのを見たお弟子さんの恐怖は想像に難くありません。でもイエス様は、「恐れるな」と言って舟に乗ってくださる。イエス様は私達にも同じ様に関わってくださいます
御言葉メール592
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2011年7月30日
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。」(ヨハネ4の29)
私はクリスチャンになってから、自分の恥とする部分も人に話す事が多くなった様に思います。多分、話す目的が違ってきたからだと思います。今までは自分を良く理解して欲しいという思いが強く、人が良い評価をしやすい所を話していました。
キリストを知る生活では、神の恵は、自分の失敗、過ちなどから教えられる事がとても多い。ひっきょうイエス様の赦しの恵みを伝えたいと思うと、私の恥の部分が多くなります。サマリヤの女性は、過去5人の夫を持ち、現在6人目の男性との同棲をイエス様に言い当てられた。彼女の全てを知りながら、イエス様はその行いを非難されない。自分の罪の姿を浮き彫りにされた女性は、罪からの救い主である待望のメシアこそ、この方であると確信する様になります。
はた目を気にする生活をしていた女性は、罪を赦す真の神を知って大胆にも町へ行き、自分の過去をさらけ出しイエスを紹介します。キリストを喜ぶ時、人が自分をどう思うか、という思いも守られる。神への信頼は人との関わりも変えていくのですね。
御言葉メール591
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御言葉メール591
2011年7月23日
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4の13,14)
90歳になられる入院中の女性を訪問しました。その方との交わりの中で、自分は自分なりにやりたい事をやってきたので悪い人生ではないが、良い人生だったとは言えない。それは満たされないものがあるからだ、と言われました。
イエス様がサマリヤという町の井戸の側で会われた女性は、彼女の人生の最も暗い部分、人に知られたくない闇を明らかにされる必要がありました。楽しい充実した人生であっても、満たされない何かがある事。諦めきった、投げ出した様な人生であっても、実は心の奥深くに飢え渇きがある事をイエス様は、一人一人に教えてくださる。
何一つ不自由の無い生活でも、山積みの問題に囲まれていても、先ずその中に満たされない渇きを覚える人は幸いです。その渇きは、必ず永遠のいのちであるイエスキリストに導くでしょう。神であるイエスキリストだけが、渇く事のない水を泉のように溢れさせてくださる。どうぞ「私は渇いています」と祈り、主を期待できます様に。
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